戦争体験集

極寒と飢餓と重労働の、悲惨なシベリア抑留から帰還した叔父の話

2019年9月1日

戦争によって起こされた悲劇の体験 許しがたい日本軍隊の下級兵士への残酷な仕打ち 高村晃世さん(仏向町在住)

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母のたった一人の弟(私の叔父)がシベリアに抑留されて命からがら復員することができて、引揚船から舞鶴港に降りた時、母と抱き合っていた姿が戦後74年余りになる今も私の脳裏から離れない。出征するまで、東京の「恵比寿ビール」の会社に勤めていた。

渋谷道玄坂にあった家も既にない。終戦直後の厳しい食糧難の時だったから私の家族だけでも食べるのが大変だったのに、父が叔父に「皆と一緒に暮らして下さい」と言ってくれた時の母は、どんなにか嬉しかったことだったと思った。

私たちも、叔父に肩身の狭い思いをさせないように子供心にも気を遣ってはいたが、叔父もせめてもの気持ちとわたしたちに一生懸命に勉強を教えてくれた。忘れもしない、私に初めて時計の見方を教えてくれたのが叔父だった。

復員のとき何かの役に立つだろうと背中にくくりつけて持ち帰ってくれた毛布が後に私のオーバーコートになり国防色と言われていたカーキー色の生地は、私がエンジ色に染めて妹たち揃いのズボンを作ることができた。

叔父は辛かった抑留中の残酷極まる話を少しづつ話してくれるようになった。

シベリアの極寒と飢餓と重労働の三重苦に体の弱かった叔父は、よくぞ耐え抜いてくれたと思ったが毎日毎日バタバタと倒れて死んでいった仲間の死体を埋める穴掘りも間に合わなかったことなど身の震える思いで聞いた。又、この三重苦の他に何よりも許せない絶対に許すことのできない実話は、日本軍隊の厳しい階級制度が下級兵士に対しての残酷な仕打ちをしたことだと云う。

いよいよ待ちにまった引揚船に乗ることが決まった前夜、仲間の一人が今までの垢(アカ)をよく落とそうと云った一言が上官の耳に入り乗船させられなかったことや、零下40℃の野外トイレが遠いのでつい近くで用を足してしまった仲間は厚い皮のスリッパで叩きのめされた。叔父はその上官を絶対に許すことができないと密かに暗殺を決意して、引揚船の甲板から海へ突き落してやろうかと思ったが、舞鶴の岸壁で今か今かと待ってくれている姉を悲しませてはならないと思いとどまった。

捕虜にされた日本兵がシベリアに抑留された総数は60万人、復員できた人は54万人、6万人がシベリアの土となってしまったのです。このような悲惨な「シべりア抑留」がなぜ起きたのか? こじれきった歴史をはかり知ることは出来ないが、日本国民が戦争によって起こされた悲劇の体験であるあることに間違いないと思う。

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