2020年8月15日 保土谷公会堂で開催した「戦争体験者のお話を聞く会」は、予定の梅津政之輔さんが東京でコロナ患者が頻発している状況で参加を見合わせて代わりに文書をいただきました。東京在住の梅津さんですが、戦時中は横浜に住んでいた時もありその時の戦争体験を、またご両親が保土ヶ谷と深い関係があり、保土ヶ谷の区史にも載っている方です。HPにはその文書の抜粋を掲載させていただきます。
- 星川駅の近くに富士紡績の保土ヶ谷工場があって、私の母がそこで紡績女工として働いていました。1923年大正12年の関東大震災でレンガ造りの工場が崩壊して630人ほどの女工さんたちが犠牲になりましたが、母は幸い助かり、翌年再建された工場でまた働き始めました。私の父も同じ富士紡績の川崎工場で染色工をしていて工場が再建されると労働組合をつくろうとして保土ヶ谷の工場にも働きかけ、ストライキをやって当時12時間労働だったのを1時間短縮させることができました。そのストライキで知り合った二人は、お互い首を切られてから結婚して私が生まれたという私の誕生譚にまつわる土地がこの星川なのです。
- 父の仕事の関係で太平洋戦争を始めた翌年の1942年(昭和17年)に東京から東横線反町駅のすぐ丘の上にある桐畑(現・神奈川区)に引越し、青木小学校に転校し、直後の4月18日初めて空襲を経験しましたがこの時はアメリカの航空母艦ホーネットから飛び立ったノースアメリカンB25による空襲で私が見たのは1機だけでした。
翌年、私は県立横浜第2中学校(現・翠嵐高校)に入学したのですが、父が川崎市池田町の社宅に移ることになったため、京急八丁畷駅から横浜2中に通いました。当時の中学というのは、1年生の時に英語が敵の言葉というので1週間に1時間だけ、陸軍の配属将校による軍事訓練があり、秋には農村の稲刈りに学徒動員されました。2年生になると、すぐ工場に動員されて3年生の終戦の時までほとんど勉強をしないで働かされました。
私のクラスは、神奈川区の京急新子安駅の近くにある昭和電工に動員されました。ここは主にアルミニュウムの原料になるアルミナを生産していて、クラスの友達はその原料運びなど重労働をさせられたのですが、私は子どもの時からチビだったので、倉庫番に配属されて仕事は楽でした。今なら折角中学校に入ったのに、勉強もしないで働かされることに不満が出たと思いますが、当時は「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」などのスローガンの下に、すべての国民はアジア諸国への侵略戦争に協力させられました。
◆ 中には日本共産党のように侵略戦争に反対する人たちもいたのですが、治安維持法による言論統制と激しい弾圧によって押さえつけられました。私の両親は、共産党員ではなかったのですが、労働運動をしたため、常に特高警察に監視され、せっかく就職しても特高が調べに来るのですぐ解雇されて生活にはずいぶん苦労したようです。
◆ 子どもたちも、小学生の時から教育勅語や皇国史観などによって天皇や国のために命を捨てるといった軍国主義教育を受けて育ちました。中学生のころ流行った歌の歌詞にあるように「五尺の命ひっさげて 国の大事に殉ずるは我等学徒の面目ぞ ああ紅の血が燃ゆる」といった考えで、みんな一生懸命働きました。
◆ B29による空襲は、最初のうちは昼間高射砲の弾が届かない1万メートルの高高度から軍事施設や工場を目標に爆撃していました。たしか11月24日、日本最大の航空機工場だった武蔵野市にある中島飛行機製作所を爆撃した時です。私は、ちょうど鶴見に住んでいた同級生の家に遊びに行っていたとき空襲が始まりました。家の外に出ると、ズシンズシンと地響きが伝わってきてB29の姿は見えませんでしたが爆弾を落としていることが分かりました。家に帰ろうとしたとき、B29が1機低空でふらつきながら飛んできました。高射砲の弾に当たって東京湾に不時着するのかと見ていたのですが、しばらくすると反転して高度400mぐらいの低さで戻ってきました。とっさに墜落すると思って私は「七字、発電機」と叫んで、七字君と一緒に追いかけました。発電機と言ったのは、当時空襲の時の情報源はラジオだけだったので、七字君と停電した時のためにB29が撃墜されたら発電機を取ってやろうと話していたからです。
機影を追って800メートル以上も走ったと思いますが、総持寺という大きな寺の近くに墜落しました。残骸が飛散していてB29のどの部分か分からないのですが、ともかく残骸の中に入って発電機を探していたら、30センチ以上もありそうな大きな編み上げ靴を見つけました。私はそれを拾い上げて「七字、見ろ、アメ公はこんなでかい靴を履いているんだ」と中を見たら何と足首が残っていました。思わず放り投げて何も取らず七字君と逃げ帰りました。私が最初に見た空襲による犠牲者は日本人ではなくアメリカ人の足首でした。
◆ それ以後、毎日のように空襲警報のサイレンが鳴るようになりました。B29はいつも爆弾や焼夷弾を落とすわけでなく、1機か2機の偵察飛行もあるのですが、それでも空襲警報のサイレンが鳴るたびに防空壕に避難していました。
昭和電工に学徒動員されていた私たちは、サイレンが鳴るとすぐ工場正門前に集合して、新子安駅近くの高台にあった会社の寮の下に造った防空壕に避難しました。2月17日のことですが、サイレンが鳴ったので駆け足で寮に着くと、そこから東京湾に停泊している航空母艦山汐丸が見え、それに向かってグラマン戦闘機が急降下して爆弾を落とし始めました。
丘の上にある会社の寮まで避難してきた同級生はみな防空壕に入ったのですが、私は黒崎君と防空壕に入らず、グラマンの爆弾で航空母艦の周りに水柱が上がるのを見ていました。そのうち爆弾を落とした1機が低空でこちらに向かってきます。操縦席からこちらを見下ろすパイロットの顔が見えたので、思わず黒崎君と拳を振り上げて「アメ公のバカ野郎」と声を上げました。し
ばらくすると、後ろから爆音が近づいてきます。振りむいた途端、屋根すれすれの上に姿を現したグラマンが、いきなりバリバリと機銃掃射、思わず防空壕に飛び込みました。後で私たちが立っていたあたりに機関砲の薬莢が落ちていたそうですから、私たちが狙われたのかもしれません。引率してきた佐久間先生からこっぴどく叱られました。空襲警報が解除されて工場に戻ると、化学プラントの一部が爆弾で破壊され、パイプや鉄骨が折れ曲がっているのを見て初めて空襲の怖さを実感しました。 やがてアメリカは、昼間の空襲で軍事施設や工場を爆撃するだけでなく、夜間に大都市の住宅地を低空で焼夷弾による絨毯爆撃をするようになりました。その最初が1945年3月10日の東京大空襲です。その夜、私は川崎の家から東京の下町の空が赤く染まるのを見ていましたが、その下が阿鼻叫喚の地獄となり10万人もの犠牲者が出ているとは想像できませんでした。
◆ 夜の空襲は、毎晩10時過ぎから始まりましたので、いつも服を着たまま床につきました。私が住んでいた川崎は、最初工場地帯が爆撃されましたが、市役所のある中心市街地は4月15日の夜、焼夷弾の絨毯爆撃を受けました。
このころ、父は予備役招集されて留守でしたので、私は母と妹の3人で庭に作った小さな防空壕に身を潜め空襲が終わるのを待ちました。焼夷弾が落ちてくると、夕立がトタン屋根に降るようなザーという音がします。そのたびに防空壕から顔を出して逃げ出す用意をしました。この日の空襲では、風向きのためか理由は分かりませんが、私の住む池田町の一角が焼け残りました。
私の家から30mぐらいのところが横浜市との境で、川崎市の中心街から離れていたからかもしれません。
◆ 横浜市が大規模な空襲を受けたのは、その後の5月29日の昼間のことでした。今度は焼け残った池田町も狙われると思って、空襲警報が鳴ると母と妹を連れて市役所の近くの焼け跡に残っている防空壕に避難しました。焼夷弾による絨毯爆撃が始まると、横浜の方角は空が黒煙で覆われ太陽が赤黒く浮き出ています。火災が広がると急に風が出て炎が横に流れる様子が見えました。空襲警報が解除されて家の様子を見に行くと、また家は焼け残っていました。私はそのまま鶴見の七字君のところの様子を見に行きました。途中、鶴見川の橋を渡る時お腹の大きな女性が流れていくのを見かけたり、国道わきに黒焦げになって倒れている犠牲者を何人も見かけました。 このころになると、焼死体を見てもまるでマネキン人形の焼け焦げを見ている感じで、戦争は人間の感覚まで変化させてしまうことに気が付きました。
◆ 確か7月25日だったと思うのですが、家に帰ると父が建物の強制疎開の命令が出たので1週間で立退かねばならない、山形県の上山市に住む親戚に電報を打っておいたから母と妹を連れてそこにいけと言われました。私は翌日、学校へ行って転校手続きをして教科書と着替えの下着だけリュックに詰めて母たちと夜行列車で上山に向かいました。今なら東北新幹線で3時間ほどで行けますが、当時は満員列車で10時間以上もかかりました。
朝、親せきの家に行くとすでに親族がみな疎開してきて部屋がいっぱいだから、皆沢村の知り合いに頼んでおいのでそちらに行ってくれと言われ、休む間もなく6㎞山奥の堀さんの家に行き、
8月15日の終戦のラジオは堀さんの家で聞きましたが、雑音がひどく「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」と言う声しか聞き取れなかったので、堀さんともっと頑張れと言われたと勝手に解釈しました。ところが、堀さんに誘われて桑畑で葉摘みをしていたら、通りかかった村の人が「どうも戦争は負けたらしいぜ」と教えてくれました。
この皆沢村には3つの小さなお寺があって、東京江東区の亀戸小学校の児童が集団疎開していました。最初、上山の温泉旅館に宿泊していたそうですが、軍隊の宿舎にするため追い出されて、皆沢村のお寺の狭い本堂に4年生から6年生の子が20人~30人ずつに分かれて生活していました。お腹がすくとセミまで捕まえて食べる子がいたという惨めな生活だったようです。私は、山形の中学に通っていたので、この子たちと話をする機会がありませんでしたが、終戦になると親が引き取りに来始めます。
ちょうど私の借りていた小屋の前にバス停があったので、親が迎えに来ると帰る子は嬉しそうにしていますが、先生と一緒に見送りに来た子供たちの羨ましそうな、寂しそうな顔を見ると、私も早く東京に帰りたいと思っているだけに身につまされ、胸が痛みました。
親が迎えに来ない子どもたちも10月にはそろって引き揚げていきましたが、後で上野駅の地
下道に寝ていた子どもたちとの姿が重なり、戦災孤児になったのではないかと4年前に江東区の中央図書館と区役所の資料で調べたのですが様子が分かりませんでした。
◆ 私は70年代ごろから海外旅行をしてきましたが、現地の人たちに日本の平和や経済成長に関する質問をよく受けました。中でも20年前にシリアのアパメアという古代遺跡に行ったとき、校外授業で来ていた5,6人の女子中学生に写真を撮らせてくれと頼まれた後、日本は平和で羨ましい、一度行きたいなどと話しかけられました。みんな美人ぞろいで、13歳と言っていましたからもう子供もいる母親になっていると思うのですが、ニュースで伝えられるシリアの内戦の状況を聞くたびに、難民になっても無事でいて欲しいと願わずにはいられません。残り少ない人生ですが、皆さんと一緒に平和を守る活動をできるだけ続けたいと思っています。以上