この研究所に集った頭脳と知恵が、戦争のためでなく平和のために活用されていたらどんなに良かっただろうと思いました。
私は今回のチラシを見て初めて研究所の存在を知り、戦争の歴史の一端に触れられるかもしれないという思いから7月8日(土)見学会に参加いたしました。正式名称は「明治大学平和教育登戸研究所資料館」で、戦後明治大学が11万坪あった研究所の敷地の半分を取得し生田キャンパスとし、敷地内に残った最後の一棟を2010年に資料館として開設したそうです。
登戸研究所は1937(昭和12)年に、新宿にあった陸軍化学研究所の「登戸実験場」として設置され、戦争の拡大とともに1942年には名称も「第九陸軍技術研究所」となり最終的には11万坪の敷地に約100棟の建物を有し、1000人もの人々が働く施設になっていました。ここは機密戦のための研究開発部門で四科が置かれていましたが、一般にはここの存在は隠されていました。
秘密戦とは防諜(スパイ防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊、攪乱、暗殺)、宣伝(人心の誘導)の4つの要素から成り立っていて、主として秘密裏に水面下で行われる戦いのため、担い手は憲兵や特務機関員、陸軍中野学校で養成された工作員などだったそうです。
研究所第1科は主にアメリカ本土に気球を飛ばして攻撃するための風船爆弾の研究開発を行っていました。かなり大掛かりな研究開発事業でしたが、製造段階では気球の材料が和紙とこんにゃく糊だったそうで、陸軍の物資不足の中での必死のあがきを感じさせます。
研究所第2科は秘密戦全般に関わるあらゆる研究開発を行っていて、秘密インキや秘密カメラ、特殊カメラ、対動物や植物へのウィルスや細菌の研究、殺人のための毒性化合物の研究などです。ここで開発された毒物兵器の成分青酸ニトリルが中国での人体実験に使用されていたことが分かり、また戦後の帝銀事件では関係者の関与が疑われましたが、明るみになることはありませんでした。
研究所第3科は高度な印刷技術を用いて偽造パスポートや偽札の製造を行っていました。特に中国の蒋介石政権の紙幣の偽造に力を注いたそうですが、偽札製造は相手国を揺るがす国際法に触れる大罪のため、建物の周囲は高い塀で囲まれ、作業員採用の際も憲兵本部による身辺調査を経るなど秘密の中の秘密の組織でした。莫大な資金と人を投入しましたが、結果的に経済戦争の面からも成功したとは言えませんでした。
研究所第4科は主に第1科、第2科の研究品の製造、補給、指導を行っていました。
この研究所の底辺を支えていたのは雇員、工員で全体の約8割を占めていて、そのほとんどが近隣地域の人たちでした。
研究所は設置以来急激に規模を拡大させていきましたが、戦局が悪化しいよいよ本土決戦を見据えた体制が組まれ、大本営の長野県松代への移転計画が本格化する中、登戸研究所も長野県を中心として各地に移転することになりました。1945年3月から4月にかけて、主に秘密戦の実行を任務とした部門は長野県上伊那地方などへの移転が行われ、施設の提供や缶詰爆弾製造への動員など内容を知らされないまま地元住民が巻き込まれて行きました。しかし程なく日本は敗戦を迎え、研究所に関する資料は一斉に処分されてしまったため、ほとんどその実態をつかむことは困難でした。なんといっても元職員たちの証言が必要でしたが、守秘義務を課せられていた職員たちの沈黙を破ることはたやすくはありませんでした。そんな中、地元長野県赤穂高校と川崎市法政二高の高校生たちの「平和ゼミナール」による調査活動がその沈黙を破るきっかけとなっていきました。また、川崎市教育委員会では「中原平和教育学級」を開設し、現地調査や体験者への聞き取りやアンケートを実施した結果、徐々に情報が集まりその実態が明らかになってきました。
この資料館に展示されている資料は、体験者の方々の貴重な記憶と研究者や教育者、それに参加する学生をはじめ一般市民の方々の粘り強い努力を基に丁寧に積み上げられた大変貴重な調査の集大成です。
今現在世界各国で戦争や紛争が後を絶たず、多くの人々が命を落とし、また命の危険の中で苦しみの日々を過ごしています。戦争は単に爆弾で攻撃しあう事だけではなく、水面下で行われるあらゆる秘密戦も含めてしのぎを削りあう闘いでもあるのです。日本でも約100年前からその秘密戦のために莫大な予算と人員をかけて実行していきました。
私はこの見学を終え、この研究所に集った頭脳と知恵が、戦争のためでなく平和のために活用されていたらどんなに良かっただろうと思いました。そして、現在国内では戦争を経験しない世代がほとんどを占めるようになり、益々国のかじ取りが間違った方向に行かないよう国民がしっかりウォッチしていく必要が高まっています。この資料館は平和教育の活動の場となるよう無料で開放され、解説員もつけてくれる貴重な施設です。一人でも多くの方々がこうした施設を利用して、過去の過ちを知り、平和を守るためには何が必要なのか考えていけたらという思いを強くしました。以上