近代日本が始まる前、保健とか衛生の感覚はきわめて低かった時代でも、病気になれば誰でも何とか助かりたいと願い、医術を心得た人に藁をもつかむ思いで頼ったと思われます。
東海道の宿場には、そんな医師が多くいたことが知られていますが、現県内では、小田原宿虎屋藤右衛門の「ういろう(外郎)」が、頭痛、たちくらみ等に効能ありとされ、神奈川宿の津屋太郎兵衛の「神妙湯」は、打ち身切り傷、産前産後等万病に効くとされ、保土ヶ谷宿宮本周司の目薬「金明丹」は、多くの眼疾を治してそれらと並び高名でした。
文政12(1829)年66歳で死去した二代目宮本周司は、保土ヶ谷の石田、星川の安藤氏らの熱心な招請により江戸銀座より保土ヶ谷宿に移り住みました。神戸町天徳院には宮本家歴代の墓が、山門を入って左奥・崖の下にあります。二代周司の墓碑に刻まれた辞世の歌からは、医師としてだけでなく深い人間性をもった周司の姿が偲ばれます。
「いつとなく いそがぬみちに
ゆきくれて 月のやどれる
つゆときゆなむ 垂穂」
天徳院には他にも、医師内野宗徳や小田原北条氏の家臣で保土ヶ谷の豪族だった小野(筑後守)家の墓等があります。筑後守は天正元年(室町幕府が倒れる)、当院の開基に後立てとなったと伝えられています。