竹山・笹山から旧中山街道がその尾根上を通る山稜が、帷子川の谷に落ちる手前、山崎と鞍部を隔てて小高い丘の上にある富士山神社。
その頂上に富士塚を築いた人々の心境がよくわかる地形です。日本人の秀峰富士への畏敬の念は特に東国の人々には強いものがありました。江戸時代も後半になって旅が普及してくると、近隣で「講」をつくり信仰の対象を参拝するようになり、「富士講」も盛んになりました。7月1日の山開きには白衣に鈴を振り、「六根清浄」を唱えながら登山したそうですが、そう誰もが行けるわけではありません。そこで近くに富士に似せて土を盛り、いくつかの「富士」を回る「登山」がおこなわれたそうです。それを「富士塚」と呼び、今でも現物や地名として多くが残されています。
特に富士の望める地域では、多く造られたようで、西谷の富士山神社のものもその一つです。この神社は江戸時代都筑郡上星川村の「山王社」と呼ばれ、向かいの山の「大六天社」と共にそれぞれの地域の村人たちの心の支えとなっていました。
現在、梅の木交差点から参道を登ると、頂上の塚には幾つか石碑が立っています。碑には、富士の格好をした山の絵の中に「星」を丸で囲んだ印が彫られ「浅間神社」「小御嶽神社」等と刻まれています。地元の人の話では、この印は「丸星講」を表し、上星川、東川島、西谷、新井、上菅田の人たちが今でも集まりをもっているそうです。
塚の頂きには、主神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)に因んだと思われる女人を彫った小さな石碑があり、新幹線や相鉄線、国道16号も目の下に望むことができます。