向き合えば悲しい思いしか湧いてこない対象を「名所」と呼ぶには抵抗があります。しかしさらに深く、歴史を考える機会となれば意味のないことではないと思います。
この墓は、1923(大正12)年の関東大震災のとき亡くなった富士瓦斯紡績会社の女工さんのうち、遺骨の引取り手のなかった者を、当時の東光寺の住職が引き取り葬ったものです。
当時富士瓦斯紡績は社員約100名、男女職工3,859名の大工場で5万坪の敷地に15棟の建物が、現在のサテーから日本精糖に至るまで建っていました。煉瓦造り平屋建ての本工場は、真中の廊下を隔てて東西の二組が、11時より正午までの早組と正午から12時半までの遅組に分かれて昼食をとるための丁度入れ替えの時間でした。
地震の直後、高さ約4間と言われた外壁が崩れ落ち多数が下敷きとなり、454名が亡くなりました。内部に鉄骨が入っていなかったためです。その時職制は、逃げだそうとする女工に対して「金を出して買ってあるのだから自由な行動はとらせない」と押し止めたそうです。(1985年発行『かながわの婦人』第2号より)単純労働に、年少の女工を前貸金で雇い入れた「女工哀史」の現実がこの保土ヶ谷にもあったのです。
高級絹布の代名詞『富士絹』を生産する会社は、その後も体質は変えることなく、相沢良や梅津萩子等々女子労働運動家・革命家として後世に名を残す人達の闘いが記録されています。