天保4(1823)年から翌年にかけて出版された安藤広重の浮世絵シリーズ『東海道五十三次』は爆発的人気を呼び、広重を一躍人気絵師に押し上げました。その時の保土ヶ谷宿の絵は「新町橋」(帷子橋の別名)で、広重はその後も繰り返しここを描きました。葛飾北斎、香蝶楼国貞等々名だたる絵師たちも競って取り上げていて、保土ヶ谷宿のシンボル的存在とされていました。
「新町」というのは「古町」に対する言葉で、古い東海道が今の宮田町山下から神明社に向かって伸びていたのが慶安元年(1648)に新しい道が開かれていて、それに沿って宿場を整備した時、帷子川河口近くに新しい橋を渡したためこれを「新町橋」と呼びました。今でも天王町から星川町方面に向かって最初に架かった「古町橋」にその名が残っています。
大きく屈曲して流れていた、神戸から天王町にかけての帷子川をショートカットして相鉄線の北側を流す工事が完成したのは1964(昭和39)年で、その時帷子橋は現在の所に移り、古町橋も線路の南から北側へ移りました。帷子川の流路の一部は帷子公園として残り、旧帷子橋の跡は「天王町駅前公園」となりました。
昨年から今年(2000年)にかけて下水道整備の機に再整備されたこの公園は、旧流路とそこを斜めに渡る橋をイメージして欄干風に道を通し、四阿風ベンチや、高札風の広報板などを配して、ここが旧帷子橋・保土ヶ谷宿のシンボルであったことを印象づけています。