日本共産党横浜市会議員団は、地下坑道問題を重視し、その全面的な調査及びその安全対策を要望しました。また地元の日本共産党は、内堀市会議員を中心に地下坑道の調査や「地下坑道問題についての懇談会」を開催したり、保土ヶ谷区長に「地下坑道対策および地域防災対策についての要請書」を提出するなど積極的に運動してきました。
横浜市は地下坑道への対応について、基本的には掘削者の責任であるというふうに考えているが、掘削者が不明で、また上部の住宅等に崩壊による被害を生じる危険性があり、市民生活の安全性を確保する観点から横浜市が対応をとの認識をもったようです。
その後の市の対応について、2001年(平成13)予算第二特別委員会・総務局審査(3月13日)で日本共産党手塚議員の質問及び三箸総務局長の答弁をみましょう。
手塚委員:これは、保土ヶ谷区にある川島小学校の創立100周年記念誌の一部をコピーしたものです。このなかに陳情書の写しが記載してありまして、川島小学校の校庭の下は坑道が網の目のようにほられていて、いつ陥没して危険な事故を起こすかわからない、早急に学校を移転してほしいという内容です。私が調べたところによると昭和24年のキテイー台風のときに、川島小学校の校庭が陥没したので、何だろうと調べてみたら、校庭ばかりではなく教室の方まで坑道が広がっていた。こんな危険なところに小学校を置けないということで今の場所に移ったという経過があるそうです。このように保土ヶ谷区にはかなり広範囲に地下坑道が存在することは確認されていますが、300ヘクタールにわたって地下坑道があるといわれているが、当局はこの実態をどのように把握しているでしょうか。
三箸総務局長:平成3年度に仏向町の地下坑道の調査についての陳情が出されまして、平成4年度に調査を行いました。また、平成6年度、7年度に地下坑道のある可能性がある周辺地区の調査を実施いたしました。この結果、仏向町の
ほかに川島町、峰岡町、仏向町団地、星川一、二丁目及び明神台団地に地下坑道があり、これらの一部に危険な箇所があることを確認いたしました。
手塚委員:これも私が直接聞いた話ですけれども、80歳になる高齢の人なのですけれども、小学校時代といいますから昭和8年ごろになると思いますが、社会科の勉強でガラス工場へ見学に行ったそうです。工場の裏に砂の山があったので、この砂はどこで取るのかと聞いたら、トロッコに乗せられて坑道の中に入ったそうです。しばらく乗ったのでどこまで行くのかと尋ねたら、元町橋まで続くといわれたそうです。なにしろ日本硝子というガラス瓶をつくる工場が使用するガラスの原料の珪砂を戦前30年にわたって掘ったのですから、大変広範囲に存在することは間違いないと思います。先ほども局長の答弁の中に、仏向町の1700番地、これは近くにマンションが建設されるときに発見されて、調査の結果、94年度に災害防止急対策事業として埋戻し工事も完了しております。その後、先ほどの話にもありましたように、川島小学校の跡地、それから峰岡二丁目の3箇所が対策を完了しております。この地下坑道の対策はどのようになったのでしょうか。
三箸総務局長:地下坑道への対応につきましては、基本的には掘削者の責任であるというふうに考えておりますが、掘削者が不明で、また上部の住宅等に崩壊による被害を生じる危険性があり、開発等の予定がない場合について、市民生活の安全性を確保する観点から本市が対応することといたしております。このため、仏向町につきましては平成6年、7年度、川島町につきましては平成7年度、峰岡町につきましは平成8年度から11年度に地下坑道の埋め戻しなどの安全対策を講じたところでございます。
仏向町1700番地付近の埋め戻し作業
星川2丁目(古河電池跡・現在のへそ広場)に設けられた設備で、土砂や、セメントを混ぜ合わせ、ミキサー車で埋め戻し現場へ運ぶ。運ばれてきた埋め戻し材は管を通して、たて抗から注入します。
川島町公園の埋め戻し作業
現在の川島町公園には、かつて川島小学校がありました。地下坑道が発見されたため今の場所に移転し、坑道の安全対策を実施したと聞いていますが、1996年4月に埋め戻しが行われました。
峰岡2丁目の埋め戻し作業
峰岡2丁目の埋め戻しは1997年の暮れから新年にかけて実施され、仏向町と同じように星川公園でセメントや土砂を攪拌し、ミキサー車で運び埋め戻ししました。