戦争体験集

7才の女子が見た戦時中の谷津町(現・横浜市金沢区)の状況 

2022年8月25日

鈴木早苗さん 85歳(上星川在住)
 2022年8月20日
「戦争体験者のお話を聞く会」にて  

 みなさん、こんにちは。私は、鈴木早苗と申します。現在85才です。
昭和12年(1937年)4月、横浜市磯子区谷津町、現在の金沢区谷津町で三人姉妹の長女として生まれました。妹は、昭和14年生まれと19年生まれです。
 両親とも今の金沢文庫駅近くで生まれ、明治40年生まれの父は農家の四男で長男は家を継ぎ二人の兄は16号線沿いで酒屋と畳屋をやり、父は学校を出ると横須賀の海軍工廠に勤めに出ました。当時は、電車が開通しておらず、海伝いに歩いて通ったそうです。ちなみに川崎大師の方は明治に京浜急行の前身が開通していましたが、横須賀方面は昭和5年4月に開通したそうです。
 母は、向こう谷津と呼ばれる六国峠(鎌倉に向かう山)の登山口そばの農家の長女として大正5年に生まれ弟が一人おりました。両親は当初、母の実家で暮らし、私が3才のころ、実家近くに家を建てました。その時父は33才、母は24才でした。すぐ裏は小高い山です。
 金沢は昔からお寺が多かったようです。朝比奈峠を越えるとすぐ鎌倉です。金沢八景と言われるように海と山に囲まれ、とても良い所でした。今も見どころ一杯です。
長浜検疫所のそばには野口英世の研究室もありました。

DSC_0853
DSC_0856

 次に旧姓斉田早苗7才が見た戦時中の谷津町の状況をお話したいと思います。谷津村と言った方が当たっていたと思います。低い山に囲まれ周囲1キロ位の所に農家が点在し、鉄工所、桶屋、大工があり、農家は20軒ほどであとは畑と田んぼだらけでした。そんな所でのんびり育ちました。
 母は実家をずっと手伝っていたので、私も祖母の家に妹たちと毎日おりました。夕食等は祖母が作ってくれみんなで済ませて帰るのが続いていたと思います。
 物を交換に来る人も何度か見ました。大切な衣類なのに食べ物と交換しなくては生きていけない、そんな時代でした。多分、中身はおイモ類でお米は多くなかったと思います。祖母が腰をかがめ、縁の下からなにか取り出して渡してあげるのも見ました。   私は、ホームスパンと言う生地でつくった服を着せられた記憶があります。祖父は静かで優しい人でした。当時は食べ物がなく、栄養が不足して子どもは手足におできが出来た子どもが多く、祖父は山の奥の不動様の水で洗って直してあげているのを何度も見ました。男の子が多かったようでした。
 そして、追浜にナタギリと言う海に近い町があり、そこに飛行場をつくるので建物疎開とやらで、畑と田んぼが多い谷津にみんなが押し寄せ、すごいことになり、のどかな風景が一変してしまいました。今も道は昔のままで車一台しか通れません。       そして、父は裏山に防空壕を掘り、空襲警報が鳴るたびに近所の人も駆け込みました。私も8才になり、海の方の金沢国民学校に入学しましたが、警戒警報が鳴ると16号は危ないので、裏道を見つけながら走って帰る毎日でした。
 16号の君ケ崎から町屋くらいまで右側には、広大な蓮田が続いていました。学校までは遠くて大変でした。そのうち学童疎開が始まり二才上の人たちは遠くのお寺などに行かされました。
 私もなぜか縁故疎開とやらで、自転車で20分くらいの釜利谷に親元を離れて行かされました。月曜日は祖父の自転車の後ろに乗り送ってもらい、土曜日には迎えに来てくれたことを思い出します。  帰ると庭に熱湯のお釜があり、母が木の細かい櫛でおかっぱ頭の髪をすいてもらったこと等、今考えるとあんな近くに一人で行かされる必要があったのかとばかげた話ばかりでした。
 終戦まで釜利谷国民学校に行っていたと思います。当時は、親は国の言いなり、子は親に従い親元から離され、子どもはみんな苦労をしました。
また、実家の低い裏山に砲台を二機作るために、農家には兵隊さんがたくさん寝泊まりしていました。それも異様な光景でした。あんな低い山に作り、使用した事かあったのかどうか知る由もありません。
 文庫駅と谷津坂駅の線路わきに「日平産業」と言う軍需工場があり、標的になりましたが、そばの富岡駅にも爆弾が落とされました。仮の駅が杉田方面にでき、私が高校に通う時は、木を渡した屋根もない仮のホームでした。
 私の家にも埼玉や静岡から軍需工場に働きに来ていた人が3人くらいおりました。
 釜利谷の防空壕は、山が少し高いので梯子がかかっており、気を付けながら急いで登り入りました。あの横浜の中心部が燃えて空全体が真っ赤だったのを、釜利谷の防空壕の入り口で大人の人の間からのぞいて見た光景が今でも鮮明に覚えています。大人の話し声も耳に残っています。その時、8才の私は何を思って見ていたのでしょうか。

 終戦になり裏山の砲台があった所は、母の実家の畑だったので父がすぐに見に行ったら跡形もなく、誰がどうしたのか知る由もなく、日本中にそんな光景があった事でしょう。 重い鉄の扇風機があったので父が持ってきたら母に笑われ、父が苦笑いした顔が今でも忘れられず、庭の片隅にずっと捨てられていました。

 戦後、野島の格納庫に飛行機が一機あったのを見ました。 終戦直後、父は今の横須賀ヴェルニー公園そばの海でアメリカの船の夜警の仕事を一時期していました。また、山元町あたりの山の上の鉄工所や何か所かの鉄工所に勤め、お給料を取りに行くとき、私を必ず連れて行ってくれました。焼け野原の街を歩き、伊勢佐木町通りのとなりは飛行場だったのを覚えています。
以上が当時の横浜の片隅で、7・8才頃の私が見た光景です。
 その当時は、子どもで何もわかりませんでした。今思えばばかげたことばかり、ムダな歳月で大変な時代でした。 国民は食わず我慢を押し付けられ、みんな苦しみました。私は、一週間に一度、家族に会えましたが、学童疎開の子どもたちは、大変な苦労をしたと思います。あんなことは二度と起こしてはなりません。
 今、大軍拡を勝手に宣言したり、国民に財源を一切示さないままに軍事費二倍化を対外に公約したり、昔も今も国民の命を守ることを知らない国会議員の多い事、なげかわしいです。憲法9条を生かし、9条を守り、平和な社会が続きますよう願うのみです。

ブログ新着記事

  • 過去の記事

  • リンク集

  • JCPWEB.JPは、日本共産党の議員・候補者・議員団・地方組織のサイト制作・管理・サポートをしています。ホームページ開設・リニューアル、ブログ制作・運営サポートなど、お気軽にお問い合わせください。
PAGE TOP