戦争体験集

戦争の虚しさ、悲しさ、悲惨さを忘れている人たちが多いと思う 和泉 浩吉さん(85歳)のお話 

2024年8月19日

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「戦争と平和を考える会」 於:2024年8月10日

平和への思い 

私、和泉浩吉は保土ケ谷区狩場町に住んでいます。今日、この「戦争と平和を考える会」に出席させていただきありがたく思っております。

先ずは、皆様知っての通り、戦争は絶対起きてはならない。起こしてはいけないことだと誰もが分かっている事でしょうが、でも起きてしまう。

戦争の虚しさ、悲しさ、悲惨さを忘れている人たちが多いと思う。今現在日本の国は平和で豊かで世界でも数少ない幸せな国でしょう。でも一旦他国に侵略を受けたら、いったい誰が守るのでしょう。今一度考える必要があると思いますが、子ども、孫の時代まで平和な国でありますように一人一人が力を合わせて考え準備をしておく必要があるのではないでしょうか

室蘭で生まれて

私事ではありますが、戦争孤児として85年生きてきたことを話していきたいと思います。

昭和14年1月9日、北海道室蘭輪西で4人兄弟の3男として生まれました。戦争が始まったであろう時期でも何不自由なく暮らしていましたが、昭和20年の5月~6月のある日突然引っ越しとのこと。疎開ですね。意味が分からないままでした。

それから何十日か経ったころ、朝起きたらみんなが泣いていました。私は分からないままいました。外国の攻撃で大勢の人が避難していた防空壕に艦砲射撃の砲弾が命中し、全員が死亡したとの知らせがあり、その中に私の父母と弟もいたそうです。その後、誰の遺体かわからないまま、海岸で火葬したとのこと。かろうじて頭部の識別ができたので保管していたそうでした。何十年後、両親の毛髪が私のところに送られてきました。思い出して泣きました。

秋田へ養子に

戦争も終わり、私は戦争孤児として生きてきました。室蘭駅~函館駅~青森駅~秋田駅へ。汽車の中ではいろんな思い出がありますが、忘れられない思い出があります。車中、みんなの中にアメリカ兵が3・4人乗っていました。その兵隊さんからチョコレートをもらったことです。大人も子どももみんな飢えていたのでしょう。みんな喜んでいました。

人の親切さを80年たっても忘れたことはありません感謝。連絡船に乗った思い出は、全く覚えていません。青森~秋田へ・・・

秋田での苦労

秋田市に来たのはいいのですが、戦争孤児ですので誰も引き取り手がないまま、3か所たらい回しでした。それもそのはずみんなが大変な時で、4か所目でようやく落ち着きました。

引き取ってくれたのは、秋田の地方の子どもにめぐまれない夫婦の方で、私が行った時にはすでに2才~3才の男の子が養子でいました。私には大変厳しい人生が待っていました。でも、そのおかげで今の私があると感謝しています。

私は、3組6人の親のおかげで、今が元気でいられると思っております。

生みの親、育ての親、何かにつけ手を差しのべて助けてくれた妻の両親の6人。

人生を振り返って

今現在、元気にいられるのも多くの人に助けていただいたお陰と感謝の気持ちで日々暮らしております。

昭和22年、引き取って育てていただきましたが、昭和45年横浜に来るまで23年間、いろいろな出来事がありました。

でも人は憎んだり恨んだりしてはいけないと心に誓って毎日を過ごしております。

今、現在、私どもは夫婦で幸せに暮らしています。以上

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