源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、関東諸国の武士団は御家人として各地に自らの領地をもちました。同時に「いざ鎌倉」に備え、鎌倉に駆けつける道が開かれました。「鎌倉道」と呼ばれる古道は、この名残です。
鎌倉道は「上・中・下」三つの主要道がありましたが、今の保土ヶ谷区内には「下の道」が通っていました。丸子で多摩川を渡り駒林(現在の日吉)、神大寺から帷子(現在の三ツ沢、宮田、天王町等)を過ぎて岩井原、井土ヶ谷、弘明寺へ通じる道です。
現在でも明倫学園へ上る道は「岩名坂」と呼ばれていますが、往時は「石難(いわな)坂」とも書かれて寂しい急坂でした。その途中右手に「御所台の井戸」があります。御所台とは、尼将軍と呼ばれて頼朝死後の「執権政治」の基礎をつくり支えた北条政子です。そのため、尼将軍化粧の水とも、政子の井戸とも呼ばれています。また隣の南区井土ヶ谷の乗蓮寺にも「尼将軍化粧の井戸」があり、下の道沿いのこの地域が政子の化粧領土であったろうと思われます。
井戸の前には説明板が立てられていますが、真夏の頃この坂を上るときには、道にかぶさる木々の枝のせいばかりでなく、いっときの涼気を感じさせてくれる一隅となっています。また、坂道の反対側のやや下に、苔むす石の階段があり、そこを上ると一群の石造物(地蔵・庚申塔等)があるので、時間があれば暫しいにしえをしのぶのも悪くはないでしょう。