戦争体験集

藤井正信さん(桜ヶ丘 1927年生まれ)

2014年6月24日

IMG_3285    私は小学校の高等科を卒業し、県立天草農業高校に入学しました。3年間の寄宿舎生活です。1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が始まり、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まり、寄宿舎内で「開戦」のラジオ放送を聞きました。お米の配給が始まり、竹製の〝おわん〟に切り盛り一杯の食事でした。毎日〝おなかがすく〟苦労が続きました。これは、敗戦後も続く永い苦しみでした。それは日本の侵略戦争の被害です。天草農業学校三年生の時は「学業優等品行善良」の賞状をもらいました。そして二学期で卒業させられました。戦争のために早く働けということのようでした。1943年(昭和18年)12月で卒業証書が交付されています。三年の教科書が途中で打ち切られました.。.

宮崎高等農林学校農学科をめざして勉強し合格しました。入学したら「国立宮崎農林専門学校」に改名されていました。学校では高齢の教授が「哲学」を教え、「これは学問の基礎である」「人生は不可解なり」といって自殺した東大生がいたが、人間は何のために生きるのかを学ぶのだ」など、目新しい事を教えられ、ちょっと大人になった感じがしました。

  太平洋戦争が拡大しており、東南アジアの有力者たちの息子たちが留学生として入学していました。彼等は宮崎警察の管理下で夏休みなどの移動にも許可が必要だったようです。当時は同級生同士で顔写真を交換していたのですが、日本人はだれとでも気軽に交換するのですが、彼らは違います。よく考えてから交換に応じました。マレーシャの学友はメッセージとサインをしてくれました。なんとなく彼等の方が自主性を大切にしているなーと思いました。級友が留学生の世話をしていました。一年生の間は教科書に忠実な勉強でした。二年生に進級する1944年(昭和19年)3月上旬に臨時列車で、茨城県の内原満蒙開拓訓練所に行き、同級生とパオに宿泊して水田の排水工事などをさせられました。

   ある夜「南の空が真っ赤に染まっているぞ」と教えられて見に行きました。翌日は、火災で焼けた和製の質札がふってきました。帰りの列車は東京入りの前に憲兵が乗車、ヨロイドを閉めさせられて東京を通過しました。東京出身の級友はトイレの窓から、都心部周辺を見て「丸焼け」になっていたといっていました。後で知ったのですが、あの「東京大空襲」だったのです。

  二年生に進学したら、すぐ学徒動員になりました。小学校高等科の生徒を指導して山野の開拓作業に従事しました。同級生と子供たちとともに農家に分宿しての作業でした。しばらくして宮崎空港西側の山間部に、飛行機の格納庫団地つくりの作業に従事させられました。学友は兵隊に行き、私も甲種特別幹部候補生に合格し、7月には「本籍地での待機」を命じられ帰郷しました。私は一年生の夏休みの時期に、熊本市郊外の「機甲訓練所での訓練」に参加させられ、自動車の動力、操縦。戦車の操縦などガソリンのない時代に自動車の運転を、合宿で勉強させられたのです。このため歩兵科や海軍関係などほとんど全員が入隊したのに、戦車隊志望の私だけ最後になったのです。

   父親も夏休みを利用して小山戸島村に来ていました。そして8月15日を迎えました。夏草取りなどの手伝いをして待機していましたが敗戦になりホッとしました。電燈の明るさが印象的でした。翌日は天草に帰ったのですが、途中の国道で黒色のススに包まれた「行き倒れ」死体を見ました。後でピカドン(原爆)の被害者だったことを知りました。帰宅すると父親のところには、復員兵などが来ては「日本は神国なのに、戦争に負けるとは思わなかった」と悔しがっていました。父親は軍国主義の教育資材と思われる本や地図や、絵はがきなどを学校から持ち帰り、「風呂の燃料に燃やしてくれ」と頼まれました。

    9月の新学期にはすぐ復学しました。兵隊に入隊した学友たちは兵隊服や革靴などを支給されていました。物資不足の時ですから、うらやましいという思いもしました。しかしその裏には制裁のゲンコツも有ったようです。学校では、にぎやかに敗戦について意見が出ました。まず「日本は神国であって負けることはないはずだ。神風が吹かなかったから負けた」「アメリカの物量作戦に負けた」と云うのです。宮崎は「天の岩戸」伝説の舞台となった土地で、高千穂峡などの名所があり、神話や伝説などが多く保守的な土地柄です。学校のそばの丘の上公園には「八紘一宇」(世界は日本の指導下で、一つの家にするという意味)の塔がありました。また生物学では「人間はホモ・サピエンス・リンネという学名を持っている」と教えられましたが、ドイツの指導者ヒットラーは「わが闘争」の中で「ユダヤ人は豚である。優秀なゲルマン民族の配下に付け」などの主旨を強調しユダヤ人殺しをあおるような事を記述しておりました。私は科学を否定するような考えに違和感を持っていました。さらに戦時中に発行された仙花紙に印刷された「葉隠武士道」を記述した本には「武士道は殿様のために死ぬことだ」と強調していました。私には大きな疑問として残っていました。

   1946年(昭和21年)1月に天皇が「人間宣言」を発表、同じくマッカーサー司令官との写真が新聞に発表されました。「神国日本」もやっと人間社会に解放されたのです。私は侵略戦争には反対です。そのためにも最近の憲法改悪の動きには反対します。

       (2006年4月 藤井正信著 「できるだけ誠実に ある共産党員の60年」より抜粋)

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