保土ヶ谷三丁目の旧道から古い石段を登って樹源寺の山門をくぐると、左に庫裏、奥に本堂があります。庫裏の前には、築山や流水であしらわれた見事な和風庭園になっています。丁寧に整えられた庭木の裏にはJRの線路が通り、何分かに一度は電車の疾走する響きが聞こえるのですが、一瞬後には静寂の気分に戻り少しも気になりません。都市に潤いをもたらそうと造られた公園もそれとしての良さはありますが、それとは一味違った、年代ものの家具を見るような独特な味のある庭園です。
江戸幕府が開かれ東海道が整備されて保土ヶ谷宿が設定された時、本陣を命じられた、初代苅部清兵衛の父・吉重はこの土地の有力者でしたが、この奥方の妙秀尼が寛永5(1628)年に庵を建立したのがこの寺の始まりと伝えられています。樹源寺の名の由来は、この地に鎌倉時代に開かれた医王寺という寺があり、江戸初期の火災で焼けて廃寺となった時、焼け残った大けやきが遠くから見ても目印となる程だったことによります。
JRの線路を踏切で渡った裏山が墓地、中腹には明治末から大正初期にかけて詩人・劇作家として活躍した後に政治家に転身、横浜市議となった山崎紫紅の墓があります。墓石の文字は歌人吉井勇の筆になり、紫紅の活躍ぶりが推察されます。
また、慶安元年(1648年)に東海道を改修し新道を造る以前の旧道の「かながわ坂」は、この墓地の一角を通っていたという説があります。