1927(昭和2)年に保土ヶ谷区域が横浜市に編入されるまで、今の天王町駅から国道16号に向かう道筋は、帷子町字川岸といい古い字名でした。その川岸の人たちの拠り所が「橘樹社」であり、「牛頭天王社」又は「天王様」と呼ばれるのが一般的でした。
当社は、文治2(1186)年平氏一門を滅ぼし天下統一を目前にした源頼朝が、国中に神社を創建、配置した時のものとされ京都祇園社(八坂神社)の祭神(牛頭天王)を分霊して設置したと伝えられています。牛頭天王は疫病よけの神とされ医学がまだ発達していない頃の人々に崇拝され、東海道に面した地の利もあって、江戸からの参拝人が多かったことが同社に残された石造物からも推察できます。
また川岸の村民に伝わる伝説によると、鎌倉時代初期、平家の落人をかくまったとがで、仏向村の浅間宝寺が焼き討ちに会った時、その寺の祭神であった牛頭天王が帷子川に飛び込んで逃れ、それを三人の百姓が拾い上げ祭ったためにその後神社の行事は、この三人の子孫が執り行うことになったという話です。
近代社会になって震災と戦災という二つの被害を受けましたが、その都度地元の人たちの後押しで再建されています。大正10(1921)年社名を「橘樹神社」と改めましたが、住民の天王様への愛着は強く地名や駅名、商店街名にその名を止めています。今年(2000年)社殿が新築され、その見事な姿を現しています。