戦争体験集

小島恒明 さん(川島町・1935年生まれ)

2016年1月24日

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  昭和18年に、住んでいた場所が海軍航空隊を広げるという国の命令で、横須賀市浦郷国民学校から、ここ藤沢国民学校に転校したとき、教室の天井にわら半紙二枚ほど(A3くらい)の大きさの紙に東西南北の方位が書いてあり、北東と南西に長く矢印が伸びその先に「宮城」(皇居)と「皇大神宮」(伊勢神宮)と墨で書かれていた。毎朝始業時に、全員起立して担任の先生と「おはようございます」とあいさつした後、級長が号令をかける。「回れ右、宮城に対し奉り、サイケーレー、直れ、回れ右、皇大神宮に、対し奉り、サイケーレー、直れ」 少々驚いたが、教室内での回れ右や、サイケーレーには、オニイさんになったような気がした。

   毎週月曜日は全校朝礼が運動場で行われた。終わってから学年別・クラス別に隊列を組んだまま教室に入ると一斉に唱和が始まる。下級生は掛け算の九九、三・四年生は教育勅語(教育に対する天皇のお言葉)を、五・六年生は歴代天皇の名を唱えた。「神武・綏靖・・・」はまだいいが、「御亀山・御小松」はいつもゴッカメヤマァ・ゴッコマツゥ・・・」と、手拍子をしたくなるように聞こえ、もう少しで終わるなどと思った。
  奉安殿(天皇、皇后の写真・御真影と呼んだと一緒に、箱入り勅語を収めてあるコンクリート製の神社型の倉庫。登下校の時には、立ち止まり、最敬礼する)から、白手袋の教頭先生が黒塗りの四角いお盆の上に紫の袱紗をかけたその箱を捧げ持って、しずしずと歩み、壇上の校長に手渡す。袱紗をとり、黄色の紐を解き、箱の蓋を取り、丁寧に右隣へ置く、中から丸めてある紙を取り出し、両手で持ち押し頂き開く。ここで全員は頭を下げる、そう、黙とうと同じような姿勢を取る。やがて咳払いを一つした校長先生は「チンオモウニ…」とのびやかな低音で朗読を始める。悪童どもにとっては「チン」はおかしいのだ。笑ったりしたら、列の前後にいる教師たちが、だれかれ構わず列から引き出し、間違いなく往復ビンタを食らう…ことを知っているから、太ももをつねり歯を食いしばって笑いをこらえる。咳払いをしただけで注意されるから、「勅語奉読」と式進行の教師の声が聞こえると、皆一斉にゴホンゴホンとまとめてしておく。そして、勅語の最後、「明治二十三年十月三十日、御名御璽」と校長が低く唱えて終わりになる。私たちにとっては「これでオシマイ」と聞こえ、いっせいに鼻を啜り上げた。
米軍の空襲が始まり、警戒警報が響く中を下校する日が続くようになった。そのため夏休みが短縮された。都心部での学童疎開が始まり、藤沢へも東京、横浜からの転校生が増えた。敵の爆撃で危険だから、地方へ生活の場を移すことを疎開といい、クラス全員が教師の指導の下、お寺や旅館などへ移り団体生活するのが学童集団疎開、親戚など知り合いを頼って一人だけまたは家族全員で移るのを縁故疎開といった。のちに戦後高校生として横浜市内へ通ったとき、横浜市内の高校生は、中区野毛から港北区日吉へ学童疎開したと聞いた。日吉は田舎だったんだ。
翌二十年になると、藤沢も危ないということで、さらに田舎に転校する同級生も増えて、一時は教室中、通路も十分通れないほどいっぱいに置いた机に、空席がかなり目立つようになった。
この年の春、永野先生は応召され、戦地に向かわれた。藤沢駅に向かう校門の両側に生徒が並び、大声で万歳を叫んで送り出した。かなり長い刀を左手に、右手を高く上げてこたえながら、大股で歩いて行かれた。それが私たちの目にした永野先生の最後の姿だった。
戦後、運よく生還され、故郷の広島に引き上げられたものの、独身のまま栄養失調で亡くなられたと、中学生になってから聞いた。
限りなく皇国史観に凝り固まっておられた先生にとって、敗戦のショックとそれに続く生活の厳しさに屈したのであろう。

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