昭和20年5月29日、当時17歳の私にとって生涯忘れられない悪夢の日となりました。
時間的にはよく覚えていませんが、追浜の航空隊にいる兄に面会に行くことになり、京浜急行花月園前駅より追浜へと向う途中,空襲警報が発令され横浜駅で降ろされました。アメリカの大編隊が来るとのことで、兵隊さんが「待機、待機」と叫んで私たちを京浜急行の乗車道の横にある穴の中へ入れてくれました。そのうちだんだん爆音がすごくなりヒユーというものすごい音、ドカンという音、もうどうしてよいのかわからず、他の防空壕にもぐりこんで、「どうしょう、どうしょう」といっていると隣にいたおじさんが、「いま出てはだめ、おじさんは戦地にいた経験があるからよくわかる、おじさんから離れてはいけないよ」と言ってくれました。じっとしていられず出て行った人の何人かは爆弾で吹っ飛んでしまいました。怖くて怖くてたまらないうちに、いつの間にか爆音が消えて行き、おそるおそる外に出ましたが、辺りは火の海、死体がたくさん倒れていました。
どうしょうどうしょうと燃え盛る市電や建物を見ていると,中年の男の方が2人、「お姉ちゃんはどこへ帰るの」と聞きますので「花月園前まで」と言うと、「おじさんたちは川崎まで帰るから途中まで一緒に行ってやるよ」と言ってくれました。本当にうれしかったです。
横浜駅には爆弾は落とされていませんでしたが、辺りは焼け野原、死体があちらこちらと横たわっていました。その亡くなった方たちを飛び越えて夢中で歩きました。恐ろしいことです。
そのときの自分の気持が思い出され悲しくなります。男の人、女の人、子供かしら?と一人ひとり飛び越えておじさんの後についてゆくので夢中でした。感傷も何もどこかへ行って、早く待っている母の元へと帰りたくて夢中でした。
途中、いろいろありましたが、どうにか家に帰りました。いつまでもいつまでも忘れられない横浜大空襲・悪夢の一日でした。