「天王町の街の雰囲気がすっかり変わった」“保土ヶ谷っ子”の言葉です。日本硝子の跡地がYBP(横浜ビジネスパーク)となり、大きなビルがニョキニョキと建ちそこで働く人が増えたからです。
その建物に向き合った山の裾に、緑の森と古い社が残っているのに心を留めた方もいるでしょう。この「神明社」が保土ヶ谷の名前の起源と深く関わっているらしいということをご存知でしょうか。神明社の縁起書によりますと、伊勢神宮の神が西暦でいうと970年に、ほぼ今の保土ヶ谷・旭区にあたる『榛谷』の地にやってきて創建したと伝えられています。
この『はんがや』が『ほどがや』になったという説が有力です。神明社は伊勢神宮の支配する土地“御厨”の拠点として出発しました。この榛谷の地はその後頼朝の家臣榛谷重朝などが、江戸時代になると幕府直轄の保土ヶ谷宿とその周辺の村々という形理されました。江戸時代には毎年暮れに神戸市が開かれ、近郊の村々や弘明寺の方からも正月の諸用品を求める人々で賑わったそうです。
25系統のバスが通る前の道は、相州道といわれていました。