昭和20年5月日午前、横浜に空襲警報のサイレンが鳴ったとき、私は中区の高台にあった平楽小学校にいました。それまで昼間の空襲は珍しく、あってもほとんどが偵察が主であったので、大した緊迫感もなく、校舎の下に誰かが掘ってあった穴の中へもぐり込みました。
しばらくすると外が騒がしくなったので、何事かと穴から出て見ると、近くの家が燃えていて、何人かがバケツリレーで消火をしていました。すぐその中に加わり、協力してその家の火は何とか消し止めました。一息ついて山元町から競馬場(現在の根岸森林公園)の方面を見渡すと、焼け落ちた家、くすぶっている家がポツンポツンとあるものの、火の手は上がっておらず、もう消火に行くこともありませんでした。眼前の消火に気を取られて、気がつかなかった反対側の阪東橋から伊勢佐木町の方面を見てみると、こちらはもくもくとした黒い煙が視界を遮りその下の状態は判断出来ませんでした。
今すぐここを逃げ出さないと危険だという状況ではなく、深刻な事態だとも考えていなかったので、時間の経過もはっきり覚えていないのですが、兎に角(とにかく)、西平沼の会社へ戻って見ようと、浦舟町の方へ降りて来てみるとそこはもう一面の焼野原。これを見て会社より我が家という事になり、それぞれ散り散りになって歩き出しました。私の家は西区西戸部町にありました。阪東橋から黄金町に差しかかった時、黒こげになった物が道路にゴロゴロと転がっていて、何だろうと近づいて見て、やっと人間だと判るぐらいに焼けただれていました。近くの黄金町の駅には外側の鉄組みだけになって焼け落ちた電車が止まっていました。
さらに関東学院前の坂道にくると、煙にやられたか、熱風にやられたか?キチッと着物を着た人が道の両側に折り重なって倒れていて、中にはまだ息のある人もいましたが、歩いている人達は見向きもせず通り越していきました。
この日焼夷弾の雨にさらされたり、大火災に追いまくられておらず、これまで身の危険を感じていなかった私もこの有様を見せられて、自然と家へ帰る足取りも早くなりました。
我が家も勿論跡かたもなく、近くの西戸部小学校に近所の人達が皆避難していると聞き、学校で家族全員の無事を確認しました。
関東大震災後に建てられた、当時、横浜の小学校は、市内では数少ない鉄筋コンクリート造りで、その上に、校舎に近い民家は、強制疎開で取り壊され建物を守っていました。小学生たちは、集団疎開や縁故疎開で一部の子を除いて横浜におらず、学校は休校状態で、市内では比較的安全な場所が遊休していました。
私が勤務していた古河電線の研究課は重要な実験用機器を平楽小学校に疎開していて、当日もその機器を使う作業のため出向していたのでした。
その古川電線の工場は、東海道線と帷子川、更に尾張屋橋に囲まれていたこともあって無傷で残り、焼夷弾攻撃の目的が何であったかをはっきりと示していました。