戦争体験集

石塚つね子さん(常盤台・1922年生まれ)

2012年7月10日

石塚写真

私は大正10年生まれで当時24歳でした。和田から星川に向かう国道16号線の左側、16号バイパスをくぐった少し先の一角に住んでいました。木村時計店,清水酒店、尾崎薬局、少し上には長友医院などが今でもがあります。(現在は和田2丁目番地付近)
主人(石塚英雄さん)は保土谷化学に勤めていました。昭和18年に結婚し、19年の7月に長男の治を出産しました。長男が生まれて間もない18年の夏、子どもをおぶって主人の実家のあった浜松に疎開しました。ところが、翌年、アメリカ海軍の艦砲射撃で浜松市はまったくの廃墟と化しました。 疎開先は浜松市内から7里(28キロ)程離れた所に有ったため難を逃れる事が出来ました。しかし、浜松にいてもどうなるか判らないと思いました。どうせ死ぬなら夫婦家族一緒に死んだ方がいいと、20年3月に横浜に帰りました。帰路の途中に二三度空襲の為に電車が停まり星川の駅に着いた時はもう夜でした。

星川駅周辺は駅舎以外ほとんど焼き尽くされていました。焼け野原の上を雪が真っ白に覆っていました。ちょうど通りかかった人がいたので和田に行く道を尋ねた事を覚えています。聞かなかったら和田に行く道も判らない変わり様でした。
当時、私は実家に住んでいました。家族は父、母、主人、生後8ヶ月の長男、三人の妹、13歳の弟武次郎(旧制中学1年)の9人家族でした。空襲のあった5月29日、三人の妹はそれぞれ勤め先や学校に行っていました。父、母、それから主人と弟が家にいました。
空襲が始まったので私は長男を背負い、夏掛けの布団をかぶって防空壕に逃げました。防空壕は今、生コン工場(16号バイパス峰岡出口横)のところにありました。空襲があっても主人や母は「どうせ死ぬなら自分の家で死ぬ」と言って、いつも家に残っていました。庭に小さな池が有ったので、その中に醤油や缶詰などの食べ物を入れました。水の中に入れて於けば焼けても残ると思ったからです。

防空壕に入ってしばらくするとザーザー雨の様な音をさせて焼夷弾が降ってきました。今で言う消防団の様な町内の役員があちこちに立って見張りをしていました。青竹のの先に縄の様な物を付けたモップの様な物を持っていました。しかし、その様な物が役に立つ火の勢いではありませんでした。
役員も何もあったものではなく、しばらくすると皆さん任務を投げ出し逃げてきました。こんな防空壕に入っていたらみんなやられてしまうといわれ、岡野公園(現常盤公園)に向かって逃げ出しました。今のような道もなく山道を這うようにして上っていく途中でふと下を見ると、自分の実家が燃えないで残っているのが見えました。それを見た途端、私は実家に逃げ帰りました。 
お隣の須藤さん、長友医院など数軒が空襲を免れ残っていました。浅間下の郵便局に勤務中空襲にあい、書類など持ちながら火事の中を逃げ惑った妹も夕方無事帰ってきました。
空襲の途中、家に残っていた主人と弟も岡野(常盤)公園に向かって逃げたそうです。そのとき、至近距離に焼夷弾が落ち、「あの時は九死に一生を得た」と主人が後で話してくれたことを覚えています。この時、弟が主人の革靴を持って逃げたというのであとでよく笑い話にしたものです。幸い家族もご近所の方も無事でした。でも、いま青葉幼稚園があるレンガ坂近くにあった防空壕に逃げた方は大勢亡くなったと聞きました。
夜になると焼け出された親戚や知人が逃げてきました。六畳、四畳半三畳に板の間の家に9人家族で暮らしていました。そこに五世帯の親戚が来たのですから大変でした。押入れの中まで入って寝ました。母が買出しで食料は確保していたので、夜になって夕飯を作ってみんなで食べました。
防空壕を出て岡野公園に逃げる途中、我が家を見つけ無我夢中で家に逃げ帰ってから、夜、夕食を作るまでのあいだ何をしたのか、何を考えていたか、家族がいつどんな風に帰ってきたのか、まったく覚えていません。いくら考えても思い出せません。

 namakon 16号バイパス峰沢出口横の生コン工場からみた和田2丁目

石塚さんは公園に逃げる途中このあたりで燃え残った我が家を発見した。

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