戦争体験集

清野保さん(上菅田・1926年生まれ)

2012年7月15日

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私は昭和20年2月15日・19歳のとき召集令状が来て東京世田谷の連隊に入隊した。
ここでは装具の支給や点検やらで1週間ほど滞在した。
2月下旬早朝起こされ品川駅まで歩かされ、汽車で九州の博多へ、博多港から輸送船で朝鮮の釜山に渡り、さらに汽車で何日もかかってソ連の山が身近に見えるコンシュンというところで連隊に入隊させられました。連隊は1000名ほどで山の中に兵舎がありました。
私たちの班は60名で2班でした。自動車廠に所属し、軍用車の整備が主な任務でした。
毎日トラックの整備と軍事訓練でしたが、3ヶ月ほどしたらいつの間にか20名の1班になっていました。噂ですが40名は南方方面に移動させられたそうです。残った20名は毎日訓練で夜の食事が済むと軍人勅諭の講義があり、私は疲れていてつい居眠りをしてしまい上官に見つかり、みんなの前で高さ30センチ位の小さな箱の上にむりやり正座させられ、辛く悲しい思いをしました。体の小さい上等兵からよく殴られました。ある時誰も返事をしなかったのを怒って全員を2列に並べ向かい合わせてお互いに頬のたたき合いさせられた。
内地で支給された新しい軍服や靴は取り上げられふるいものを与えられた。靴など訓練で畑をかけているとき底が割れて使い物にならなかった。
次第に戦局が厳しく、8月になりソ連軍が攻めてくるという情報が入り、連隊を移動しなければならない状態になった。偽装して隠してあったトラクターを引き出し兵舎の中のあらゆる物を急いで積み込み、次々と出発した。
そのときはすでに遅く、山道から出た本通りをソ連の戦車がふさぐような状況になっていた。私の車は出発がほんの少し早かったので攻撃をまぬかれたが、遅れた車の兵隊はソ連軍の一斉攻撃にあい全滅した。ソ連軍は私たちの動きをいち早く察知していたようだ。
運よく攻撃を免れた部隊は戦争のため閉鎖されていた満州の小学校を見つけ駐屯した。そこでソ連軍の次の攻撃に備えるため近くの山の中に陣地をつくることになりスコップをかついで出かけましたが、まだ仕事をしないうちに伝令が来て「日本は負けたからすぐ帰れ」という命令です。
帰ってみたら武装解除され、校庭に鉄砲や軍刀が投げ出され山のようになっていた。すぐに将校たちはソ連軍に連行され上官は見当たらず下士官のみで「日本に帰るから支度をしなさい」といわれ、荷物をまとめ持てるだけなんでも背負い兵舎を出て列をつくり歩き出した。いつの間にかソ連の兵隊が列の前と後ろにいた。食事もまともに取らず毎日毎日歩かされた。休憩の時は道路に倒れこむように休むのだが、次第に歩けなくなる兵隊が出てきた。歩くのだ、歩くのだといわれても歩けない兵隊は、背丈より高いコーリヤン畑の中に引きずるように連れ込まれ帰ってこなかった。

休憩している時、寄ってきた満州人の食糧と物々交換をして飢えをしのいだ。夜は道端の草の上に肩を寄せ合いごろ寝した。
ある日、突然藪の中から銃を持った脱走兵が出てきて、「俺は日本には帰らない」といってまた藪の中に消えた。
着いたところは満州の各方面から集まった兵隊でいっぱいだった。その頃になると部隊という組織はなく、一人ひとりバラバラでお互いのつながりはなくなっていた。約1000名の兵隊が集まると順番に出てゆくので、日本に帰れるとばかり思っていたが、着いたところはよくわからない山の中のテント村、夜は絶対テントから出ないよう注意があった。ソ連の兵隊に腕時計や万年筆を脅し取られるとのことでした。
気温が下がり寒くなる頃、山の中の生活も終わり、山を降りてシベリヤ鉄道の貨車に乗せられた。1両に50名ぐらいが背を押し合って座った。その貨車も夜だけ走り昼間は引込み線に入れられて待機します。ある夜ボーボーと船の汽笛のような音がするので「港が近くなったぞ」と皆で万歳万歳と叫んだ。しかし港には着かず、どこか解らない駅に着き、そこで全員が降ろされました。港と思ったのは錯覚だったようです。すでに10月は過ぎていたと思うがホームは凍っていた。連れて行かれたところは町からはるかに離れた平原に丸太を組んだ大きなロッグハウスのような兵舎で、2段ベットが付いていて200名ぐらいが入れた。そんな兵舎が幾つも並んでいた。電灯はなく夜は油の入った皿にぼろ布を浸し火をつけて灯りにした。兵舎はソ連軍が使っていたもので、オンドルになっていて大きなペチカもありそこに入っている限り凍えることはなかった。
トイレは野外で穴を掘って板を渡し四方をむしろ張りのような簡単なものです。寒さが激しく零下30度ぐらいになると便は凍り、だんだん重なり氷の塔のようになった。順番の者が丸太で叩いて崩し捨てに行きます。
そこでは10名が1グループで4グループの40名が1班になり、必ず一緒に行動した。
班の責任者も決まり、最初にやった作業は建物の基礎になる穴掘りでした。道具は使い古した先が丸くなったようなツルハシとソ連製の三角の使いにくいシャベルで、幅1メートル位の深くて長い溝を掘るのですが、すぐ凍土に当たり固くてなかなか掘れません。作業の成績は食事に関係します。1日に決められた穴掘りを100%達成できた時は、長さ40センチぐらい幅15センチぐらいの黒パン1個がもらえましたが、30%の時は3分の1になります。それを10人で分けるのです。
棒に印をつけて物差しにして黒パン1個を皆の前で切り分けるのです。その日の成績により厚いときもあれば1センチぐらいの薄い時もあります。それにキャベツが入った薄い塩味のスープでとても腹がもちません。入れ物ははんごのほかに拾ってきた空き缶でです。それに公平に分けるのです。100%達成するのは大変なことで初めはよく掘っても30%がやっとでした。
主食は黒パンのほか大豆、麦、コーリャン、燕麦がありました。燕麦などは馬の飼料です。そんなものを食べ続けていると、鳥目になるのです。鳥目になると夜は外に出られません。物が光ってしまい段差があっても分かりません。見えなくなるのです。食事が変わり大豆などが続くと治るのです。いつも腹をすかして皆がりがりにやせていました。
森林の伐採など色々な仕事がありましたが、作業現場へはすべて歩いて行くので自動車など見ませんでした。

一番の人気は糧秣倉庫でした。麦や粉など袋詰めにする作業で帰りにこっそり下着に入れて持ち出せるからです。それをペチカで煮て食べるのですが、だんだん見張りが厳しくなり持ち出しが難しくなりました。ある時班長に呼ばれて20名位で遠い駅まで歩かされた。酸素便を貨車に積み込む作業でした。2人で担いで貨車に積み込むとき後ろの人が凍ったところで転んだので私も転び貨車とホームの間に落ちて右腕を骨折した。班長が拾ってきた板切れを腕に当てぼろ布で固く結わいて、やっとの思いで帰ってきたが、治療などは無く腕は膨れあがり幾日痛みこんでしまった。

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