昭和6年6月神奈川区(西区)浅間町生まれ、満州事変のさなか軍国主義、国の政策で産めよ増やせよと子沢さんを奨励、母は8人兄弟生む小生四男5歳下の弟と戦時時代の国民学校軍国主義天皇崇拝の教育を受けた。
尋常小学校から国民学校に
昭和16年(1941)3月1日国民学校令が公布「皇国の道に則り、初等普通教育を施して、国民の基礎的練成をを目的」としたものであった。国民学校と改称された。
教育内容も変わり,国民科、理数科。体練科、芸能科の5教科とした。
儀式や学校行事を重視し、宮城遥拝の日常化や初歩的な初歩的な軍事教練も実施された。
昭和19年(1944年)「決戦非常措置要鋼」が決定され、中学生以上の生徒には学徒勤労動員の強化・疎開促進などが打ち出された。
戦局は不利になっていたが子供の私は日本は勝つと思っていた。そうゆう教育がされて育ってきたのである。
勤労動員時代
高等学校時代一学期の午前中勤労動員、午後の二時間が学業を受け、二学期からは学業がなくなり工場に直接に勤務させられた、最初に配属させられた工場は横浜木工製造所で陸軍特攻艇(震洋)を制作している会社であった事を戦後の資料で知りました。(太平洋戦争史慟哭編より) |
戦果が悪くなり最初の空襲は艦載機の機銃掃射に見舞われ,その後は空襲警報前の警戒警報が鳴ると同時に敵機の襲来(B29)頭上に見え爆弾を投下され(焼夷弾)富士紡績天王町商店街が消失日時は忘れました (今のイオンスーパー周辺)その後5月29日の横浜大空襲で焼き出され焼けトタンで仮住まい、一時的に母と姉と私三人が母方の縁故を頼り疎開をして(一人息子は戦死老夫婦の家)バラックの家ができるまで暮らし、その間の苦労は農家の手伝いなどをし野菜などを頂き麦と野菜サツマイモの混ぜ粥飯で暮らしておりました。食料は主食がジャガイモ、サツマイモなどで農家ですらお米がなく、さんざんな生活でした。こうゆう状態で8月15日の終戦を迎えました 。9月にバラックの家が出来横浜に戻り、兄も復員し家族全員が揃いました。
生活のために貨車の積み卸し(日雇い人足14歳)作業(日当大人の半額)で生活の手助けをしておりました。
横浜に帰ってきてからの食料は大豆の絞りかす、高粱粉、ドングリの粉が主食、千葉県の農家までサツマイモの買い出し、お金では買えず錦紗の着物など物々交換(姉の嫁入り道具として母が大事に疎開していた着物)など、13歳から14歳まで、15歳で古河電線横浜工場に就職、一年半で離職16歳し、昭和22年8月交通局少年車掌(市電)に合格就職、20歳で軌道運転乙種免許修得、運転手兼車掌で昭和43年1月19日まで、交通局合理化で1月20日横浜市土木局に配転された。
戦況はラジオ放送で勝利放送されながら、空襲され艦載機の機銃掃射など戦況が悪くなりB29の襲来し焼夷弾で焼け野原。イラクに爆撃する爆弾が日本に落とした焼夷弾との違いで被害は同じで米国に同調する日本は戦前に帰るのではないかと危惧する思いです。産めよ増やせよとの時代に育ち苦労をしてきた私たち、少子高齢化とゆうことで福祉を切り捨てる政府、政党助成金など廃止して福祉厚生に有意義に活用してもらいたい。