戦争体験集
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私は昭和9年生まれで,当時小学校5年生でした。和田愛児園から船員病院の方にあがってくる大池道路の途中の保土ヶ谷中学裏門に近いところに住んでいました。 B29はちょうど橘中学の方向(南)からきて現在...
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当時私は15歳。父はすでに亡く、母と弟妹は秋田へ疎開し、たった一人で横浜に残り、寮生活をしながら国鉄で働く少女でした。戦時中、男の人たちは戦地へかり出され、主な働き手となったのは若い(幼い)女性...
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私は大正10年生まれで当時24歳でした。和田から星川に向かう国道16号線の左側、16号バイパスをくぐった少し先の一角に住んでいました。木村時計店,清水酒店、尾崎薬局、少し上には長友医院などが今でもが...
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被災地「平沼橋から保土ヶ谷駅」 空襲当時は平沼橋在住 8歳(小学2年) 私は平沼橋で空襲にあいました。もともと、私の家は洪福...
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当時、私は軍需工場だった星川の古河電池に勤めていました。古河電池の工場は、5月29日の横浜大空襲の前に、かろうじて事務所を残し、空襲で丸焼けになりました。工場は、横須賀に移転して仕事を続けました...
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昭和20年5月日午前、横浜に空襲警報のサイレンが鳴ったとき、私は中区の高台にあった平楽小学校にいました。それまで昼間の空襲は珍しく、あってもほとんどが偵察が主であったので、大した緊迫感もなく、校舎...
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「帰路に見た 黄金町・伊勢町・反町・西久保町」 空襲当時は反町在住 20歳 5月29日、私はいつもと同じように8時少し前、反町の生家をで、京浜急行に乗り出勤しました。金沢八景にあった海軍航空技術廠で...
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横浜大空襲のとき、私は18歳でした。横浜双葉学園を三月に卒業し女子挺身隊員として桜木町駅近くの県警察部保険課に勤務していました。戦争が激しさを増したためでしょうか、戦争の終わる少し前、保土ヶ谷の山...
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被災地 『満蒙開拓青少年義勇軍として満州』 川島町くぬぎ台団地に住んでいます山上さんに戦争体験を話していただきました。山上さんは、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り苦労して1953年(昭和28)...
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被災地 『横浜駅』 当時17歳 昭和20年5月29日、当時17歳の私にとって生涯忘れられない悪夢の日となりました。 時間的にはよく覚えていませんが、追浜の航空隊にいる兄に面会に行くことになり、京浜急...